2007年4月10日火曜日

為替は何を表すか?

今の為替、相当な円安でありましてこれが何を意味しているのか、その「存在と解釈」を「系譜学的考察」を使って考えていかねばなりません。ユーロ、オセアニア通貨の上昇と米ドルの上昇、スピードがまったく違う。言い換えれば円と米ドルは同じように売られているといえます。そう、ある意味ペッグされているのです。
何が、そうさせるのか?イラン情勢が気になりますし、今日のG7もユーロ最高値圏で行われ、なにやら怪しい雰囲気ですね。しかもワシントンで行われる。また中国から首相が来日し安部首相と会談を持ったのも気になります。タイミングがよすぎですね。
また、アル・ゴアの地球温暖化も引っかかる。あれ以来もてはやされてもいない。地球温暖化という言葉の反応でも見に来たような感じだ。あれほど京都議定書に反発していた米国なのに世界を回ったようだ。元副大統領が私的に回れるわけがない。しかも日本で番組にも出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%A2

そもそも、二酸化炭素が増えているのと温度が上がっているのと関連性があるのかどうかという問題もある。
たかだか人間の排出した二酸化炭素だけがそれほどの膨大な影響を与えるのだろうか?
それよりも太陽の活動の方がよっぽど地球に甚大な影響を与えるとおもうのですけれどね。
第一、二酸化炭素云々言うなら真っ先に戦争などやめるべきでしょうし、石油なんて採掘したらだめでしょう。そういうことはせず、世界を突然回るわけです。地球温暖化という外面をつけてね。 

つまり、地球温暖化を隠れ蓑に、世界の人々に怪しまれず何かしらの特命を受けて世界を回ったのだろう。
もしくはアル・ゴア本人も視線をそらす役目で(彼は温暖化問題に関心があるようだから打って付けな人選)、付き人たちがその役目を負ったいたかもしれませんね。
それとも、おきるかもしれないイラン戦争について何か行ったのかも知れません。

まあ、妄想です。

2007年4月2日月曜日

敷衍の罠さえ見抜けませんか?

テレビをつければ敷衍ばかり。

同じことを違う内容で説明しているだけのくだらない番組。

同じ意味を違う言葉で繰り返すことを敷衍という。

そんなのばかりじゃねーか。

中身がまったく同じで、外面だけは変えてあるという、一種の成りすまし。

つまり「だまし」。

実際、どれほどの人が見抜いているのか。

見抜けなければ、ただ何が起こっているのかも理解できずに終わるだけだろう。

単なるレベルの低い罠に過ぎない。

自分で関連性を番組から抽出し、項目ごとに当てはめていくと、ものすごい番組数なのに、項目は少ないことに気づくだろう。

グルメとイベントとセックスと…後何がある?

パンとサーカスとはよく言ったものだ。

ほとんどの方は「敷衍」という言葉さえ忘れて(皮肉)しまっているのではないだろうか。

2007年3月23日金曜日

存在と解釈と(「これ」と「それ」との板ばさみ)

石は石であって、石ではない。

これは、存在しているものにある特定の意味づけや関連付けを行っているということである。

うまれてから、脳に「そのように関連付けよ」と親や周囲の人々から無理やりに教え込まれた結果であるともいえる。

もし、教えることをしなければ、たとえ脳にその能力があるといえども、石を石とは理解しないのではないか?
いや、物体を五感で感じ取る能力は教育とは関係なく備わっているのだから、石の質感は五感を通して理解はしているはずである。

とすると、五感で感じ取れる存在と解釈、教える(教育する)ことによる存在と解釈とはまったく別物ではないのか?

たとえば、「注連縄」である。

これをどのように解釈するのかはそれを見た側によるので、神道の教育を受けたものと、受けていないものの解釈の違いは相当な違いになる。

そもそも「乾燥した植物をねじったもの」程度でしかないのに、それに何か神聖な、触れるのをためらうような感覚を感じてしまうのは、程度の差こそあれ、宗教的解釈が脳内に関連付けられているからに他ならない。

そういった五感で感じ取れる解釈と、宗教的解釈とが異様に離れていようとも、何も違和感もなくお互いを関連付け・意味づけさせてしまうのは、生まれてからの教え(教育)に他ならない。

であるからして、私が見る「石」はほかの人が見る「石」とは微妙に違ってくるはずである。
が、
義務教育により、日本人はみな同じような解釈にいたるわけだ。

もし、義務教育の中で「石」は「神の化身」であると教え込めば、すべての石は崇め奉られるわけであり、私たちの解釈などというものはいかようにも操作されえるということである。



存在は変わらぬのに、解釈は条件により変わるといえることは、いったい何を意味するのだろうか?


私は、何なのであろう?

2007年3月22日木曜日

はじめに

堅苦しい題でありますが、たいしたことはないのです。
ただ単に世の中を見て、成立過程とか背景とか行動の本質とかいろいろ考えてしまうたちなもので、そういったことを忘れずに記録しておいて将来に役立てばいいなと思っているのです。
やはり、個人的にはこの世の本質といいますか根本といいますか、そういったものがどういったものであるのか私は知りたいだけなもので、もちろん、自分の考えとかいうものは理路整然としたものになっているかといったらそうなってもいないわけで、ある部分では矛盾なりあると思うのです。しかし、そういったことがこのブログを通して浮き彫りになってくるだけでも自分としてはうれしいもので、自分の考えを整理するのに非常に役立つわけであります。
でも、そう簡単にスムーズに物が運ぶとは思ってもいないわけでして、最初のうちは試行錯誤の繰り返しでやっていき、そのうちにもだんだんと習慣を用いた効率化をはかり、一定のスタイルが出てくるのを待つ形になると思うのです。あまり大上段に構えても続かないとも思いますしね。
最初はスタイル化を求めて行こうと思います。