哲学に考古学的手法を取り入れたものが系譜学です。 この観点から私たちの日常を見ると、ある思考によって成り立っているのがよくわかります。つまり、自然のものを誰かによって作られた解釈で理解しているということです。個人的にこう言った物を「思考の檻」と呼んでいます。 この「思考の檻」は言葉、行動、仕草、思考プロセスなど、個人(または社会・集団)の行動すべてにわたって強烈な影響を与えています。時には人の思考を操作することも可能です。 この「思考の檻」を見出すことで、檻に入らずに生きていけたらいいなあと思います。 しかし、何もできてません・・・。完全に、日々の雑感とか自然とか備忘録的な要素であふれちゃってます。
2015年7月17日金曜日
葛藤こそ権力・支配者との戦い
葛藤。。
内在される規範と主体性の葛藤は日常おこる。
やっていいのか悪いのか?
To be? Or not to be?
その葛藤こそが、植えつけられた権力、つまり統治システムとの戦いではなかろうかと最近思うのだ。
自己内に形成された倫理観や規範は、幼少からの公教育による支配の記録、統治の歴史、植えつけられた権力である。
それこそが、自己統制でもって、主体性があると思わせつつも、本来の主体性を権力の思うように制御するのを可能にさせる統治システムではなかろうか。
「ベッドにまで法律が」とはフーコーの弁だが、よく言い表されている。
彼は「監獄の誕生」「知への意志」のなかで、権力とは自己内の力関係、つまり内部葛藤ではないかと新たな側面・視点を見出した。
ミクロな権力である。
従順になれと人は言う。
法律を守れと人は言う。
暴力はするなと人は言う。
しかし、、、どうであろうか?
主体性をもって行動することを、どれほど押さえつけられているのか、よくわかるだろう。
統治システムの作った方法でしか、主体性を表すことが現在の最有力であるとするのなら、統治システムは何も怖がらない。
選択は統治システム側にあるのだから。
登録:
投稿 (Atom)