哲学に考古学的手法を取り入れたものが系譜学です。 この観点から私たちの日常を見ると、ある思考によって成り立っているのがよくわかります。つまり、自然のものを誰かによって作られた解釈で理解しているということです。個人的にこう言った物を「思考の檻」と呼んでいます。 この「思考の檻」は言葉、行動、仕草、思考プロセスなど、個人(または社会・集団)の行動すべてにわたって強烈な影響を与えています。時には人の思考を操作することも可能です。 この「思考の檻」を見出すことで、檻に入らずに生きていけたらいいなあと思います。 しかし、何もできてません・・・。完全に、日々の雑感とか自然とか備忘録的な要素であふれちゃってます。
2007年9月22日土曜日
政府モデルがら乖離した場合への制裁による社会コントロール
以下雑感です。
政府のモデルから外れた日本人への制裁ではないかと思われる政策が、子鼠以来目に付くようになった。
たとえば、
高齢者医療の削減=>思った以上に皆長生きしすぎ、よって制裁。
母子家庭への支援削減=>わがまま言って離婚しすぎ、よって制裁。
年金受給拒否制度=>もらいすぎ、よって制裁。
高齢者用特別保険制度=>使いすぎ、よって制裁。
医療費負担額増加=>安易に病院使いすぎ、よって制裁。
住民税増税=>お金溜め込みすぎ、よって制裁
消費税増税=>お金使わなすぎ、よって制裁。
年金からの天引き可能化=>年金もらいすぎ、よって制裁。
障害者自立支援=>多すぎ、よって制裁。
雇用保険増額と給付削減=>仕事やめ過ぎ。よって制裁。
などなど
つまり、こういうことだ。
日本人は政府のモデル通りのガキを作り、病気になり、そして死んで池。
最近は勝手気ままに生き過ぎる、制裁制度をこれ見よがしにつくり、制裁を一見制裁とわからない様に科してコントロールをしていく。
彼らの作ったモデルが、どうしようもないものであったことをひた隠すため、そして、そのモデルに則った権益利権を守るため、日本人のほうを制裁するといっているようなものだ。
これが、儒教をベースとした国家運営方法であり、中国、朝鮮半島を参考とすればよくわかるであろう。
儒教の教えは「すべてを権力者に」であって、忠、義、信、孝、徳などなどは、民衆の権力者への絶対服従と、その見返りとしての権力者による民衆への観念的施し(実際は無し)の指針である。
今の日本の政策がこれに則ったものであると理解できよう。
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