2007年3月23日金曜日

存在と解釈と(「これ」と「それ」との板ばさみ)

石は石であって、石ではない。

これは、存在しているものにある特定の意味づけや関連付けを行っているということである。

うまれてから、脳に「そのように関連付けよ」と親や周囲の人々から無理やりに教え込まれた結果であるともいえる。

もし、教えることをしなければ、たとえ脳にその能力があるといえども、石を石とは理解しないのではないか?
いや、物体を五感で感じ取る能力は教育とは関係なく備わっているのだから、石の質感は五感を通して理解はしているはずである。

とすると、五感で感じ取れる存在と解釈、教える(教育する)ことによる存在と解釈とはまったく別物ではないのか?

たとえば、「注連縄」である。

これをどのように解釈するのかはそれを見た側によるので、神道の教育を受けたものと、受けていないものの解釈の違いは相当な違いになる。

そもそも「乾燥した植物をねじったもの」程度でしかないのに、それに何か神聖な、触れるのをためらうような感覚を感じてしまうのは、程度の差こそあれ、宗教的解釈が脳内に関連付けられているからに他ならない。

そういった五感で感じ取れる解釈と、宗教的解釈とが異様に離れていようとも、何も違和感もなくお互いを関連付け・意味づけさせてしまうのは、生まれてからの教え(教育)に他ならない。

であるからして、私が見る「石」はほかの人が見る「石」とは微妙に違ってくるはずである。
が、
義務教育により、日本人はみな同じような解釈にいたるわけだ。

もし、義務教育の中で「石」は「神の化身」であると教え込めば、すべての石は崇め奉られるわけであり、私たちの解釈などというものはいかようにも操作されえるということである。



存在は変わらぬのに、解釈は条件により変わるといえることは、いったい何を意味するのだろうか?


私は、何なのであろう?