2011年10月12日水曜日

本当に重要なことは、自分だけの心にしまっておいて、その場を楽しむ作法

いわゆる日本的空気とは何か?

ある会話中、それぞれは参加者全員の意見を聞きながら、それぞれが勝手に咀嚼し、勝手に判断を脳内で下している。もちろん、相手の所作全てを見ながらだ。
そして勝手に、「ここでこの発言をしないほうがいいな」「ここはこういうべきだろうな」と勝手に考えている。
判断基準はもちろん場を盛り下げないこと。「この会話の流れを壊さずに、どういう発言が一番みんなに受容されるのか?」だ。

つまり議論を避けた、おもねる思慮。
本当に重要なことは何かってのは、自分だけの心にしまっておいて、その場を楽しむ作法とでも言えばいいのか?

なぜか?
簡単に言えば儒教的見栄の文化でしょう。一度言った事は完遂しなければならない。友人知人に顔が立たない。言い訳ができない。と常に自分の見栄のために、他人の目を見て非難を避ける文化的なものがあるからだろう。
そんなのどうでもよくて、たいしたことがないのは、TVに出てくる政治家を見ていればよく分かるのに、それにこだわるのもまた、儒教的見栄の文化なのでしょう。

どうだろうか。
よく考えてみれば本当に重要なことって声高に叫ばないよね。
そういうものって、万が一間違えたらって考えて、個人の見栄のために心にしまっておくのが常だろうね。

特に今回の原発・放射能問題は本当に重要なことなので、対外的にはその場を楽しみながら人知れず対策を行うの日本的空気なのでしょうね。
そうすれば面子が保てる。公言していないので失敗しても恥をかかない。ということでしょう。

そして静かに、見栄の担保に事実を探し、日本人は危険地区から避難をするのだとおもいます。

2011年7月5日火曜日

そろそろ、奴らの言う「正義」を語ろうか・・

3月11日の震災後、日本は変わり、政府・税金利益集団の欺瞞が大衆に知らされるようになりました。
しかし、どうも国民を分断しようとする勢力が見え隠れし、事実の隠蔽、言い逃れを巧みに用いて、当分終わらない放射能垂れ流し災害を、なかったことにしよう、終わったことにしようと躍起になっている。

そんなことは100も承知なのでフェイスブックで友人たちにいろんな情報を提示してはいたが、どうも関心を持たないように、もしくは避けるように、傍観している雰囲気がある。

フェイスブックは、どうやら表層文化のみ自己表現する世界のようだ。と勝手に判断し、再度ブログを始めることにする。

また、3月11日以来、どうも最近、「奴ら」の言うことが耳に障るようになってきたのもブログを再開する理由のひとつだ。
このブログで、誰が「奴ら」なのかと考えるきっかけにでもなれば幸いである。
「奴ら」については、過去のわたしではブログ内でなかなか表現できなかったが、おぼろげながら分かるであろう。
カーぎるとか門三都とか、そういった類が発展途上国に何をしてきたのか?「奴ら」の作った市場というゲームのリングでどれほど人々をほしいままにしてきたのか?紙幣という詐欺でどれほど簒奪してきたのか?が分かるはずだ。

2008年8月6日水曜日

言語に組み込まれる暗示アンカー

高山です。

暑いですよ毎日。標高が高いくせにくぼんだ土地なので熱が逃げにくいのでしょうかね?

さぁ、国語の時間です。

我々の使っている言葉には、意識せずとも上下関係が歴然と現れているのをご存知でしょうか?

たとえば、「払い下げる」

我々は下げられた物を購入ということですね。下げられた=階層化のアンカー

敬語、礼儀などはまさしく階層化のアンカー。

そういった言葉や仕草は知らず知らずうちに、主従関係=階層化を身につけさせます。

日本は儒教に染まった国。非常に階層化、区別、差別が大好きです。

そういった国民性は、使う言語や日常の仕草からにじみ出てくるのですね。

皆さんも調べると色々見つけられますよ

2007年12月31日月曜日

ニーチェの虚無主義と超人

以下ウイキペディアより引用 [編集]

概要 ニヒリズムとは、今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言う。
「神が死んだ」後、私たちは科学という新たな神に未来を期待したが、第二次大戦は科学の恐ろしさを、あるいは科学進歩が必ずしも私たちの未来を明るくするものとは限らないということを証明した。
心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムは上記のような「精神状態」で、2080年ごろまで続くことになるが、このニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
一つは、すべてが無価値、偽り、仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一生懸命生きるという態度(強さのニヒリズム)。もう一つは、何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム)。
ニーチェは前者を肯定し、永遠回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷹の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
ハイデガーによれば、ニヒリズムの温床は、現実や現世からの超越を主張する形而上学的立場だとされる。
したがって「ニヒリズムの超克」という視点は、「超克」ということにおいて、それ自身がニヒリズムとされ、ニヒリズムの克服を主張したニーチェは「最後のニヒリスト」と見なされる。
「ニーチェの最も過激な門人」と評されるユンガーは、現代世界は、ニヒリズムの境界を通過したと言い、ハイデガーとニヒリズム論を交換している。

[編集] 矛盾点
ニヒリズムはよく真理が存在しないとする信念と表されるが、このような信念を正しいとするのは難しいだろう。
なぜならばもし""真理が存在しない""が正しいとすれば、""真理が存在しない""という主張自体が""真理""になり、自己矛盾に陥ることになるからである。
同じような反論は相対主義、論理実証主義における意義の検証可能理論にも浴びせられている。
真理が存在しないに対するより高度な解釈として、""真理は存在するかもしれないが、それは実際には人間がアクセスできるものではない""とするのがあるが、この場合、ニヒリストがどうやってそれにアクセスしたかが問題となる。
これに対して、ニヒリストは真理に直接的にはアクセスしていないが、""真理は人間の境界内において結局獲得できるものではない""であることを過去の経験により導き出しそのような結論となった、というのは理にかなった答えかもしれない。このように、ニヒリスト達は""真理は人間が獲得できるものではない""であること悟ったと信じているため、彼らは真理を求める行為を無益と見なしている。
極端なニヒリズムとして、論理的な事柄の真理を人間が知ることはできないとするものがある。この場合、事実としてニヒリズムが矛盾に至ることは問題ではない、なぜならば矛盾は論理を受け入れる者に対して問題となるわけだから。

[編集] ニヒリズムの超克 存在しない形而上学的な原理を追い求めることは過程であり、迷いながらも自己を否定せずそれを理解すること。


引用終わり

虚無主義とは何なのか?

彼はキリスト教全盛の時代に「神は死んだ」と唱えています。彼の中には、「神自体、人が都合よく作ったもの」であり、「その神に基づく価値観は、それ自体が教会により都合よく作られたもの」だと考え「全ての価値は無価値である。」と唱えたのではなかろうか?

つまり、キリスト教の世界観の中だけでの価値観が氾濫する世の中ではあるが、それ以外の世界観から見れば、別な価値観が付与される。
すなわち、同一の価値観などは妄言に等しいということであろう。
現代において、神は形を科学技術に変え、そして今は地球環境に変わろうとしている。
それらを信じることにより、全ての問題が解決することなど妄言に等しい。全ては人が作った神なのだ。 しかし、人という限界から抜け出ることが出来ないのならば、そういった妄言を見分ける目を持った上で、逆に利用して生きていったほうが、人間の世では正解なのだろう。

それをニーチェは「超人」と呼んだ。

日本のことわざで「国敗れて、山河あり」というのがある。 私には、この言葉には、人の世と、それを超越する別の世が混在することを言い表しているように思えてならない。 「所詮、国などというものも人の作った虚構の世界、一度なくなってしまってもそこには自然が存在するだけであり、今までしがみついていた国などというものは何だったのだろうか?」 という意味があるように思う。
この世が幻想であり、虚構であることを知っていれば、国が滅ぶ前に、この世はただ単に繰り返されるだけのものであると気づくであろう。

そういったことを知りつつ生きていく姿がこの世ではいいのだろう。

2007年11月22日木曜日

この世は幻想である



電車

飛行機

携帯
PC

全て、幻想の賜物である。

この世の全てのものが、人の幻想を具現化したものである。

つまり、この世は、幻想で成り立っているのだ。

だから、社会生活上は幻想の姿を思い描く人々のみが生きていけるのである。

この世は幻想である。

お金でさえも幻想なのだ。

2007年11月9日金曜日

日本は明確な階層社会(つまり差別で成り立っている)

ルース・ベネディクト 菊と刀 より

「…日本は近年いちじるしく西欧化されたにもかかわらず、依然として貴族主義的な社会である。人と挨拶をし、人と接触する時には必ず、お互いの間の社会的間隔の性質と度合いとを指示せねばならない。

日本人は他人に向かって’EAT’(食え)とか’SIT DOWN’(座れ)とか言うたびごとに、相手が親しい人間であるか、目下の者であるか、あるいはまた目上の者であるかによって別な言葉を使う。

同じ’YOU’でもそれぞれの場合に別な形を用いねばならないし、同じ意味の動詞が幾種類かの異なった語幹をもっている。…」

引用終わり

つまり、全ての日常の行動に階層社会の意識づけの要因が詰め込まれているのだ。

立ち居振る舞い、しゃべり方、歩き方、表情から仕草にいたるまで全て、許される行為と許されざる行為が明確に分かれており、許されざる行為は限られた雲上の人々にのみ許されているものと普段から教えられてきているのだ。

これこそ階層社会への道程であり、我々は進んで階層化させられてきたのだ。

暴力を振るうものは悪いのではなく、そういった階層(893)だと教えられてきているのだ。

なぜ、休日になるとチンピラ風な行動を取る輩が大量に発生するのか? 全てこの階層化社会が説明してくれている。

社会的集団の中で、最下層を占めている働き手は、「お客は大切なもの」と教え込まれる。

階層社会では上の階層への階段をどのように手に入れるかが重要になる。 誰もが虐げられたくはないからだ。

だからこそ、働き手ではなく、お客という上層の集団に週末のみ進んで住み込みたがり、普段よりも上層の行動を取ろうと躍起になるのだ 浅ましき階層社会。 カースト制といったほうが良いであろう。

2007年11月1日木曜日

貧困への道程4~ラダックを見よ~

懐かしい未来 ラダックから学ぶ この先我々はどうなるのでしょうか?

誰かに勝手に決められている世の中なんて私は嫌ですね。

金のコントロールを明け渡すと、あらゆるものが奪われる。

その金を人はまた、幻想のために惜しみなく使う。

地球上で絶滅した種は、このおかげで、ある意味幻想を追い求める人間のおかげで、数え切れなくなっている。

因みに、 アメリカにあったリンゴ7000種のうち、今残っているのは1000種のみである。

中国に1万種あった小麦は、現在1000種である。

人という種も・・・。