2007年12月31日月曜日

ニーチェの虚無主義と超人

以下ウイキペディアより引用 [編集]

概要 ニヒリズムとは、今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言う。
「神が死んだ」後、私たちは科学という新たな神に未来を期待したが、第二次大戦は科学の恐ろしさを、あるいは科学進歩が必ずしも私たちの未来を明るくするものとは限らないということを証明した。
心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムは上記のような「精神状態」で、2080年ごろまで続くことになるが、このニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
一つは、すべてが無価値、偽り、仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一生懸命生きるという態度(強さのニヒリズム)。もう一つは、何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム)。
ニーチェは前者を肯定し、永遠回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷹の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。
ハイデガーによれば、ニヒリズムの温床は、現実や現世からの超越を主張する形而上学的立場だとされる。
したがって「ニヒリズムの超克」という視点は、「超克」ということにおいて、それ自身がニヒリズムとされ、ニヒリズムの克服を主張したニーチェは「最後のニヒリスト」と見なされる。
「ニーチェの最も過激な門人」と評されるユンガーは、現代世界は、ニヒリズムの境界を通過したと言い、ハイデガーとニヒリズム論を交換している。

[編集] 矛盾点
ニヒリズムはよく真理が存在しないとする信念と表されるが、このような信念を正しいとするのは難しいだろう。
なぜならばもし""真理が存在しない""が正しいとすれば、""真理が存在しない""という主張自体が""真理""になり、自己矛盾に陥ることになるからである。
同じような反論は相対主義、論理実証主義における意義の検証可能理論にも浴びせられている。
真理が存在しないに対するより高度な解釈として、""真理は存在するかもしれないが、それは実際には人間がアクセスできるものではない""とするのがあるが、この場合、ニヒリストがどうやってそれにアクセスしたかが問題となる。
これに対して、ニヒリストは真理に直接的にはアクセスしていないが、""真理は人間の境界内において結局獲得できるものではない""であることを過去の経験により導き出しそのような結論となった、というのは理にかなった答えかもしれない。このように、ニヒリスト達は""真理は人間が獲得できるものではない""であること悟ったと信じているため、彼らは真理を求める行為を無益と見なしている。
極端なニヒリズムとして、論理的な事柄の真理を人間が知ることはできないとするものがある。この場合、事実としてニヒリズムが矛盾に至ることは問題ではない、なぜならば矛盾は論理を受け入れる者に対して問題となるわけだから。

[編集] ニヒリズムの超克 存在しない形而上学的な原理を追い求めることは過程であり、迷いながらも自己を否定せずそれを理解すること。


引用終わり

虚無主義とは何なのか?

彼はキリスト教全盛の時代に「神は死んだ」と唱えています。彼の中には、「神自体、人が都合よく作ったもの」であり、「その神に基づく価値観は、それ自体が教会により都合よく作られたもの」だと考え「全ての価値は無価値である。」と唱えたのではなかろうか?

つまり、キリスト教の世界観の中だけでの価値観が氾濫する世の中ではあるが、それ以外の世界観から見れば、別な価値観が付与される。
すなわち、同一の価値観などは妄言に等しいということであろう。
現代において、神は形を科学技術に変え、そして今は地球環境に変わろうとしている。
それらを信じることにより、全ての問題が解決することなど妄言に等しい。全ては人が作った神なのだ。 しかし、人という限界から抜け出ることが出来ないのならば、そういった妄言を見分ける目を持った上で、逆に利用して生きていったほうが、人間の世では正解なのだろう。

それをニーチェは「超人」と呼んだ。

日本のことわざで「国敗れて、山河あり」というのがある。 私には、この言葉には、人の世と、それを超越する別の世が混在することを言い表しているように思えてならない。 「所詮、国などというものも人の作った虚構の世界、一度なくなってしまってもそこには自然が存在するだけであり、今までしがみついていた国などというものは何だったのだろうか?」 という意味があるように思う。
この世が幻想であり、虚構であることを知っていれば、国が滅ぶ前に、この世はただ単に繰り返されるだけのものであると気づくであろう。

そういったことを知りつつ生きていく姿がこの世ではいいのだろう。