哲学に考古学的手法を取り入れたものが系譜学です。 この観点から私たちの日常を見ると、ある思考によって成り立っているのがよくわかります。つまり、自然のものを誰かによって作られた解釈で理解しているということです。個人的にこう言った物を「思考の檻」と呼んでいます。 この「思考の檻」は言葉、行動、仕草、思考プロセスなど、個人(または社会・集団)の行動すべてにわたって強烈な影響を与えています。時には人の思考を操作することも可能です。 この「思考の檻」を見出すことで、檻に入らずに生きていけたらいいなあと思います。 しかし、何もできてません・・・。完全に、日々の雑感とか自然とか備忘録的な要素であふれちゃってます。
2007年10月21日日曜日
日本は低レベルな相互監視統制社会
低レベルとは、知能が低いとかではなく、強度が低いことをあらわし、人に気づかれにくいレベルのこと。
週末と平日の街の様子を見ていると良くわかるのだが、週末になると一般人による力を使った低レベルの威嚇、示威行動が非常に多い。
力というのは暴力ではなく、財力をベースとしたもので、ある程度小銭を集めないと出来ない程度の示威行動のことをいっているのである。
マフラーを購入して騒音を出すとか、いかつい車に乗って急発進・急ブレーキをいたずらに行うとか。
わざわざ通行量の多い歩道に高級車を違法駐車したりとか。
最新の話題物を身につけているとか。
運転中のあおり、空ぶかし、信号無視、速度違反など893的運転、もちろんフルスモ&低車高、もしくは高級車やいかついRV。
しかも、この類に共通しているのは「わざとじゃない」という言い訳を用意しながら「わざと行うこと」である。
こういうのを見ると、日々鬱屈した社会生活を行って週末発散しているのだろうなと思う。
日本で学校に入ると、皆と同じを強要され、違わないことを第一とした教育が行われる。ゆえに、学校内では違いを探す低レベルな相互監視が自然発生的に子供の社会に出来上がる。
違いわない努力を平日行い、週末はその監視からはずれしたいことをする。
この低レベルの監視は以後、高校まで続き、大学になると一気に外れることとなる。
その後、社会に出ると平日の監視は会社内で行われ、強度は職場によってまちまちになる。
特に大変な神経を使う現場仕事、重機オペレーター、運転手等の職場では事故を起こさないようにするため非常に強い相互監視が行われることになる。また外回りの営業職は会社の運命を握るため強い監視下におかれることとなり、体育会系など飼いならされた経験がある人々を積極的に採用をする。
そこで週末を向かえ、監視の目が緩むと好きなことが出来るようになるので、示威行動を表に出すようになるが、いたずらに出すのは己の社会生命の抹殺になるため普通の後ろ盾の無い人々は「わざとではない」と「わざと見せて」示威行動を行い、精神のバランスを取っている。
通常の世界で示威行動に表さず、非常に限られた世界での示威行動も盛んに行われる。理解できない人にはマスターベーション的行動と同一視される。いわゆる趣味の世界というものだ。
趣味の世界内では「どれだけ没頭しているのか」を示威行動の指標としてはかり、没頭度、マニアック度において同一世界内で示威行動を行う。
行っていることは同じである。
本質的に相互監視統制社会内での抑圧度が高ければ高いほど、監視が外れるとその反動の示威行動が強くなる。
なぜ、起こすのか?
自分が抑圧する側に回りたいからである。
自分の苦しみを他人に味わわせ、自分の環境を赤の他人に押し付け、その中で監視統制をするほうになりたいからある。
だから、他人の苦しみは「俺も同じだ」といって跳ね除け、逆にいじめ倒したりする。
「俺だってやっているのにうまくいかないのに、なぜお前は簡単にあきらめるのか」「嫌でもやり続けろ」「辛いのが普通」「死にたいのは皆同じ」
正当な理由も、制度の不備も全て個人の人格による甘えとし、人を追い詰める。
程度の差はあれ、自分が平日に行われているように、休日に他人に押し付ける。
だから他人のミスは許せない。
でも893にはこういったことはしない。体面、見栄で人を殺してきた人々を傷つけば、全てはあっさりと抹殺される。
鬱屈した世界。
監視が強まればもっと目立たぬように反動としての示威行動が多くなる。
そろそろ、コロシアムでも必要かな(笑)?
それともいけにえかな(笑)?
低レベルな相互監視統制社会はこれから強度を増していく日本では、弱いものだけが損をし、する。