哲学に考古学的手法を取り入れたものが系譜学です。 この観点から私たちの日常を見ると、ある思考によって成り立っているのがよくわかります。つまり、自然のものを誰かによって作られた解釈で理解しているということです。個人的にこう言った物を「思考の檻」と呼んでいます。 この「思考の檻」は言葉、行動、仕草、思考プロセスなど、個人(または社会・集団)の行動すべてにわたって強烈な影響を与えています。時には人の思考を操作することも可能です。 この「思考の檻」を見出すことで、檻に入らずに生きていけたらいいなあと思います。 しかし、何もできてません・・・。完全に、日々の雑感とか自然とか備忘録的な要素であふれちゃってます。
2007年6月13日水曜日
競争の本質
私は競争が嫌いです。
具体的に言えば、「作られた競争」が嫌いです。
よくありますよね、売り上げ伸ばすための社内での競争とか、広告などに知らずに煽られての見栄張り競争とか。
そういうのです。
そういったものには必ず勝者がいません、というより、勝者は別のところにいます。
一番の勝者は、競争を設定した人です。
参加者は勝者には決してなり得ません。
つまり、競争はそれを設定した人のためのものなのです。
参加者は駒です。もちろん盛り上げ役の桜がたくさん参加します。
社会を見渡すと、無益な競争が多いですね。
誰のための競争なのか考えれば直ぐわかるのに、みんな考えないようにしている。
でも、仕方ないのかもしれません。
参加しなければ生きていけない人もいるかも知れませんから。
昔流行したゲーム理論http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%90%86%E8%AB%96ってありましたけど、あれはもう論理破綻したのかな?
つまり、どうやって勝っていくのかという理論ですが、あれ、不完全なんですよね。
だって、参加しない人には全く効果がないのですから(笑)
大学のときだったかな、その理論が本屋で並んだのは。
ばかばかしくて読む気にもなれなかったのを覚えています。
競争ごとで唯一いえるのは「決して同じ土俵に乗るな」ですかね、私からすると。
第一、この世の中がそんなに単純化できるわけがない。
いまだに人体は謎の塊で、常温核融合や元素転換http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%83%A9%E3%83%B3などが日常的に人体内でおきている可能性がいまだにあるのに、そんな盤上の理論のようなものが簡単に成り立つわけがない。
成り立つとしても、非常に限定されたものでしょうね。無理やり同じ土俵に乗せるとかね。
そんなわけで、競争ごとがあるたびに、ため息しか出ないのです。
今の日本を見ていると、無理やり作られた競争の多いこと。
TV・広告・雑誌を駆使して、誰が秀でているとか明日の飯にもならないことばっかり。
しかも高級品といえば〇〇だの、肉といえば牛肉だの、えびといえばイセエビだの。。。。。。
でもって、夏といえば海にひまわりで、春と言えば桜。。。。。
いつも同じこと、同じものの比較。
敷衍ですね。意味のない繰り返し。
若いころは、それがどういうものかも判断できないのでしょうけどね。
まぁ、競争は参加者のためではなく競争設定者のためのもので、その競争の結果誰にどんな利益が流れるのか見切ることが必要でしょうね。誰にも煽られずに生きていくためには。