「疑うことは、信じることである。」
ヴィトゲン・シュタインの言葉です。
彼が言いたいのは
「何が本当か信じていなければ、何が疑わしいかわからない。」
ということです。
つまり、かれは「疑うときには必ず何かを信じている」というのです。
「本当に内臓があるのだろうか?」ということは「(内臓があると信じているけれど)本当に内臓があるのだろうか?」
というのと何も変わらない。
このカッコにはさまれた部分が暗黙のうちにわれわれが信じていることではないでしょうか?
だからこそ、「疑うということは、信じるということである」といえるのです。
逆にいえば、「信じることが出来ない人には、疑うことさえも不可能である」ということになります。
本質を見抜くためには必ず必要になる視点ですね。
このように、よく考えてみれば案外見落としている前提(ある場合は指摘されたくない前提)が見つかるものです。
わたしはこういった視点を持つべきだと声高々に言いたいのです。
言葉は人を支配します。
これはどうしようもない事実であります。
その支配を逃れたければ、何も見ない・聞かない・感じないという状況を作るしかありません。
ですので、言葉はよくよく考えて使うべきでしょう。
今、目にするあらゆる広告、政治家の答弁、ニュース原稿、映像、新聞記事など全てのものが、程度の差こそあれ、このような視点にさらされても、ある程度耐えられるように作られています。
言い換えれば、わざと前提を隠したりします。
特に政治的に微妙で扱いにくいようなものこそ、こういったものの出番であり、わざと判りやすく書いたり、巧妙に隠したり、言い換えて視点をずらしたりしています。
ですので、意識的にそういった視点を持ったほうが面白いと思います。
たとえば、ある人は言いました
「仕事は楽しんでやるものではない」と。
これはどういうことでしょう?
これから言える事は「苦しんで初めて仕事になりうる」「楽しんでいる全ての物事は決して仕事になりえない」ということです。
一体、苦しんだ状態でどうやってゲストに接しられるのでしょう?
楽しんでいる限り仕事とはみなされないわけですから、「楽しむ=悪」と扱われますね?
もしかしたら、評価の対象になるかもしれません。
そういった矛盾を平気でおっしゃる方がままいるのです。
私のいたところはそういった方がおられました。
それでいて、「サービスが悪い」といって怒られるわけですから、何かがおかしいとしか言いようがありません。
かれは、自分の言葉で自分の首を絞めてしまっているのですが、実際には何も気づいてはいないのではないでしょうか?
言葉はよくよく考えて使わねばなりません。
私は意地悪なものなので、そういったことはあまり訂正せずに(その上の上司には色々報告する)世間にさらしたままにしますが、その世間がそういった矛盾に気づかない場合、誰かが声をあげて直接指摘するしかありません。
私のいたところは、誰も指摘はしていないようです。
いや、誰かがしているかもしれません。
しかし、その方はいまだにご顕在でいらっしゃるようです。
反面教師としては逸材ではありますが…。
語調がおかしかったり、強い言い回しだったりしましたので、少し書き換えたり、文を加えたりしましたが、内容には手を加えてありません。5月10日10時35分(日本時間)