2007年5月20日日曜日

存在と解釈と本質と

わかっている方には敷衍であるかもしれませんが、前も書きましたように存在と解釈は全くの別物であります。ただ「同じだよ」って教えられただけ。
じゃ、どういった観点で(世界観で)存在を教えていくのかってところが問題になってくるわけでして、実は昔の化石の解釈を見れば、教会と科学がどうして対立をしたのかというのも一目瞭然に判ってくるわけであります。つまり単なる教会の解釈と科学の解釈との言い争いです。存在は何も変わってはいないのですけれどね。そしてお互いがお互いの世界観の中で物事の本質を見抜いていこうとする。「こういった場合はこう解釈する」といった具合に。
わかりにくい方もいらっしゃるかも知れませんので簡単な例を挙げましょう。
金1g=1000円とします。
これはどういうことかというと、「1000円だよ」ってみんなが勝手に解釈しているだけの話。もしくはその値段で強引に解釈させられているだけの話です。
金自体の存在は決して何も変わっていません。金は金なのです。ただそれが1g=1000円だよって誰かに教えられ、そう皆が解釈しているだけの話。
それが2000円になれば、そう解釈しただけの話です。
非常に簡単な話。存在と解釈は別々なものです。
しかし、そこで問題になるのが「どうして金1gが1000円なのか?」ということであります。
「別に100円だって50000円だって何だっていいじゃないか、なぜ今1000円なのか?」
これが解釈の問題、つまり昔の教会と科学の解釈合戦になってきます。
そうです、解釈する側の世界観とは何かということが大きなウエートを持つことになってくるのです。
そしてお互いがお互いの世界観の中で本質を見抜こうとし、色々な条件付けをしていくわけですね。
個人個人色々考えるわけです。
個人個人の解釈はその生活範囲から制限を受けますので、全ての人がある特定のフィルターを通してものを見ていることになります。判りやすく言えば、個人の生活環境の影響が解釈に影響を及ぼすということです。私たちはたとえ同じ空間に長らくいようとも、決して他人にはなれませんのでそれ自体が解釈の限界になります。「夕日は本当に赤いのか決して解らず、隣の人と本当に同じ色を同じように感じているのか決して解らない」のです。ですので必要十分な条件付けをお互いがしていくことになります。
「今日の夕日赤いね(実は朱色に近い色を感じている)」

「本当、真っ赤ね(実は鮮血のような赤い色を感じている)」
この会話で問題になってくるのは「赤い」ということがどれほどの弾力性をもったものであるのかということになってきます。たとえ朱色でもどす黒い赤でも「赤色」であるという要件さえ満たせば「赤色」と判断することになるわけで、どういったときに「赤色」になるのかという境界線(必要条件)を見つけなくてはなりません。これが本質論の行き着くところではないでしょうか。
つまり、本質を見抜けば解釈を他人と共有できるということであり、本質を見抜けなければ同じ解釈を体験できることが難しいということであります。
それゆえに、この会話は成り立っているようで、成り立ってなく、成り立っていないようで成り立っているのですね。
解釈としてはお互い間違っているが、本質的には当たっているというところです。
また、本質的に違うということは解釈の必要条件が違うということを意味し、本質的に違うもの同士が解釈(世界観)を共有することは難しいものです。同じ事象を見ても、見ている世界が違いますので解釈は全く違うものになります。
つまり、会話が成り立たない。

「今日の夕日やけに赤くね?(実は朱色を感じている)」

「赤くねぇよ、黒いじゃねぇか、なに言ってんだお前?頭おかしいんじゃねぇ?(実は鮮血のような赤を感じている)」
解釈はお互い違っているし、本質的にも違っているしで、会話が成り立っていないですね。
話がそれましたが、つまり存在の解釈は世界観が重要であり、その世界観をお互いが共有するのには本質が必要であり、本質的に違う場合は世界観の共有は難しいということです。
金1g=1000円ということは、1000円が価値判断の基準になり、円の価値を理解しているもの同士なら本質的には問題は無いのです、円の価値を共有しているわけですから。ただそれが1gに対して妥当かどうかということは解釈の問題になってきます。
つまり、解釈はあなたがどう思っているのかということに集約されていくのです。
存在と解釈と本質はこういうことではないのか?と考える日々でございます。