2007年8月4日土曜日

自由な詭弁

哲学的な何か、あと科学とか
 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/index.html より引用

クオリア(4) 前提事項: クオリア(3)
●クオリアは、科学で取り扱えるか? 脳の特定部位の活動を停止させると、 その部位に対応する『特定の色(クオリア)』は見えなくなる。
逆に、脳の特定部位の活動を復活させると、 その部位に対応する『特定の色(クオリア)』は再び見えるようになる。
このことから、 ワレワレの意識の上に起きている『クオリア』が、 「脳という機械」と深い因果関係にある、 ということは容易に想像できる。 も
ちろん、なぜ、脳という機械が動作すると、『クオリア』が発生するのか、 その仕組み・原理は、まったくわかっていない。

ところで、 そもそも、脳とは、「原子・分子」などの物質の集まりにすぎないし、 脳内で起きている「情報伝達の仕組み」というのは、単に、 「ある脳細胞が、特定の化学物質を分泌して、隣の脳細胞に影響を与える」 ということを延々と繰り返しているだけにすぎないわけだが、 実際に、脳を構成している「脳細胞」を1個取り出して、 どんなに観察したとしても、そこには、 「一定の法則にしたがって、機械的に作業している姿」 しか見つからないわけで、そういう機械的な物質(脳細胞)が、 なぜ、「意識」「主観的体験」「クオリア」を生み出しているのか、 合理的な説明はまったくできない。

また、この脳細胞が何億何兆と集まったとしても同様で、 こういった機械的な物質が集まって、どんなに複雑化したからって、 そこに「意識」「主観的体験」「クオリア」が発生することの 合理的な説明には決してなりえない。
この話を理解しやすくするため、 「ものすごい大量の歯車が集まってできた、  人間そっくりに振舞う、精巧なブリキのロボット」 を想像してみてほしい。 このロボットは、さも、人間らしく振舞うが、 中身としては、単純な歯車の集まりにすぎない。
このときワレワレは、 「大量の歯車が、複雑に組み合わさったから、人間らしい動きが出来る」 という理屈について、理解も納得もできるが、 「大量の歯車が、複雑に組み合わさったから、意識やクオリアが発生した」 という理屈について、まったく理解も納得もできない。

一般的な常識にしたがえば、
「はぁ!?歯車なんか、いくら集まったって、  そこから、意識とか、クオリアとかが  出てくるわけないでしょ!?」
と考える方が自然だろう。
つまり、ようするに、ワレワレは、 「(機械的な)物質が集まった結果として、意識やクオリアが発生する」 という理屈を、 合理的に理解できる思考回路を持っていないのである。 とはいえ、実を言えば、 そもそも、科学は、 「意識」「クオリア」がなぜ発生するか、 という合理的な理由を見出す必要なんかない! という考え方も存在する。

たとえば、 「質量を持つ物質が2つあるとき、両者の間に、引力が生じる」
という科学の理論だって、

「Aという物理条件がそろえば、Bという現象が生じる」

ということを説明しているだけにすぎない。 実際のところ、

「質量のある2つの物質の間に、なぜ、引力なんて現象が起きるの?」

と合理的な理由を問われても、

「うるさいな!理由なんか知るか!  とにかく、宇宙はそういうふうにできてるの!」

と主張するしかなく、 実際、科学は、そういうふうに説明することしかできない。

(もちろん、重力について、  
「重力子を使って説明しようとする仮説」があるが、  
仮に、この仮説が証明されても同じことである。  
それが証明されたところで、  
「じゃあ、なぜ、重力子があると、そういう現象が起きるの?」  
とさらに問いかけができるわけだから、  
やっぱり合理的な理由の説明にはなっていないのだ。  

結局のところ、科学は、宇宙に起きるすべての現象について、  究極的には「宇宙はこうなっています」としか言えず、  合理的な説明は本質的にできないのである) 結局のところ、科学というのは、

「Aという物理条件がそろえば、  Bという現象が生じる」

「物理条件A → 現象B」

という法則を示しているだけで、その法則そのものに、 そもそも、合理的な説明なんかできないし、する必要もないのだ。
だから、科学が、クオリアについて、同じことを述べたっていいのである。

「うるさいな!理由なんか知るか!  とにかく、宇宙はそういうふうにできてるの!  脳細胞がいっぱい集まると、  クオリアが発生するんだよ!」

と主張したって、別にいいのだ。

実際、量子力学は、 「2重スリット実験における電子の振る舞い」を合理的に説明できないし、 おそらく、合理的に説明できる日は永遠にやってこないと思われるが、 それでも特に問題なく、科学理論として取り扱っている。 結論として、 「科学が、クオリアを合理的に説明できる可能性は非常に少ない」が、 別に合理的に説明できなくても、そこさえ割り切ってしまえば、 「不可思議なクオリアという存在」を 科学的に取り扱うことは、絶対に不可能というわけではないのである。

(補足) ただし、逆に、そこを割り切ってしまうと、 「脳細胞が集まると、クオリアが発生します。  なぜかわかりませんが、  とにかく、そういうものなんです」 という程度のことしか言えず、やっぱり、 科学によるクオリアの『納得』のいく説明は、絶望的なのかもしれない。
結局、ワレワレに残された道は、
「脳細胞のネットワークが、あるていど複雑化すると、  この世のどこかにある『クオリア界の扉』が開かれて、  そこからクオリアがやってくるのです」
のような適当につじつまのあう物語(ヨタ話)を作って、 なんとなく、説明がついたような気分に浸ることだけなのかもしれない。 実際、ワレワレは、そのほかの物理現象については、 そのようにして、説明がついたような気分に浸って満足しているのだから。

引用終わり。

私たちの考えはどこから来るのでしょう?
なぜ選択できるのでしょう?
なぜ行動できるのでしょう?
なぜそう思うのでしょう?
なぜ?ってなぜ思うのでしょう?

脳みそは細胞の集まりです、「バカの壁」書いた人も脳みそは機械と同じといっていた気がする。

手元に本なぞ無いので名前も忘れたが、公演やTVで脳みそについて色々おっしゃっていたのを覚えている。
彼は脳外科医だった(?)ので機能的に脳みそを見ることはお手の物だろう。 彼は説明してくれるのだろうか?この疑問を。
なぜ考えたのか、なぜそう思うのか、勝手に判断するだけってことは、 何かしら生まれてから教え込まれていた伝統・習慣・社会関係・社会環境によって裏打ちされ 自分が意識しなくとも勝手に選んでしまうのだろう。
合理的理由があれば、それは自由に選んだことにはならず、逆に説明としては不完全さをあらわす。 つまり、合理的理由があるにもかかわらず、それを選ばない自由もあるのだからだ。 結局、なぜには答えられていない。

もしかしたら、自由という言葉が間違っているのかもしれない。 選択肢が限られているときに自由という言葉を用いると、勝手に選んでくれる。
これが、民衆に選ばせる立場であればなおのこと用いなくてはならない言葉だ。
自由という言葉の下での判断は、個人の判断は疎外され、与えられた中から選ぶという不都合な状態から「自由」に物事を選ぶことになり、結果、自由に選ぶことが出来ない。

自由とは詭弁の一種だ